気になる点
◆笑い話
「おはよう」は主人公一家の向こう三軒両隣を中心に、昭和30年代の家族の暮らしと生活風景をコミカルタッチで表現している作品である。細かいエピソードが沢山あって、結構笑える。描かれるのは一般的な家庭の日常にあるものから、違う時代背景だけれど、なんだか自分の子供時代を思い出して懐かしくなる。例とあげれば、会費の件、子供たちの抵抗、宮沢さんの件というストーリーあるいはエピソードはその時代の雰囲気、三軒両隣の生活風景を笑い話の形で私たちに伝えた、全く飽きさせない。特に「大人だって余計なこと言ってるじゃないか」のところが面白いと思う。
◆映画の中の挨拶
映画の最後には、「一見余計に見えることも、実は大事だったりする」という言葉がある。それを見れば私はとても感心した。挨拶は一見不重要でも、小津安二郎監督作品の中には特殊な意義があると思う。小津作品にはしょっちゅう「そうかね」「そうですよ」「なるほど、そうなのか」なんていう会話が出てくる。
こういうシーンがある。ラストシーンで、佐田啓二ふんする福井が、密かに思いを寄せる節子と偶然駅のプラットホームで出会う。しかしそこで福井は、「なんてことのない」天気の話をする。「あぁ、いいお天気ですね。」と福井はやり、それに対して節子も「本当、いいお天気。」と返す。いい天気が数日つづくかどうか、雲がなにかに似ているかなどことばを繰り返す。最後に福井がふたたび、「いいお天気ですね。」とやり、それに対して節子も「本当に、いいお天気。」と返す。結局、節子への福井の想いは、「天気の話」にかくされてしまう。
本作は、こうしたどうでもいいような会話も実は大切であるという、監督からのメッセージだと思う。おそらく当時から「あんな会話はつまらん」という意見もあったが、それに対してそういう挨拶の表現は不可欠だと思う。
◆頭を小突くで放屁
こどもたちが互いの頭を小突くことによっておならを出す冒頭のシーンがある。このシーンの中心的キャラクターは子供たちである。子供たちはともだちに頭を小突かせて、勝ち誇ったようにおならをだす。それを何度か繰り返すという楽しいシーンである。こどもたちがこのかわった遊びをする理由は、友人の父がおならを使って自分の妻をよぶことを見たからである。極面白いシーンだと思う。子供たちは挨拶のかわりにこういう変わった遊び、肛門からもれる空気でコミュニケーションしているのである。あいさつやなんてことのないことばは、実は放屁と代替可能であるということを表しただろう。
個人の解釈
お早うは小津安二郎が1959年監督した、大人と子供の世界を描いたカラー映画である。私は一人でケタケタ笑いながら、この映画を見た。面白いのはもちろん、日常にあるような小さな事件を描いている話であるが、その日常こそがとても楽しいと思う、最後まで見るも飽きない。狭い町内で色々な細かい出来事がある。たとえば、ある男の子の兄弟が父親にお説教をされて、無駄なことを喋るなって言われたから、怒ってそれから二人とも全く喋らなくなってしまう。他には、内会の会費の問題やら、東野英治が定年して再就職したりやら、近所に住んでいるホステス風の女の問題とか、いろいろなエピソードがある。一番印象深いのは子どもがおでこを押すとおならをしたりゲームをするシーンである。その町内の雰囲気が何とも言えず、平凡で幸せな人の集まりだと思う。
印象には、こういうシーンが残った、映画の少年たちの家にテレビがやってくる前に、主婦たちの間でどこかの家が電気洗濯機を購入したということが話題になる。昔、冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビといえば「三種の神器」と称された。小津はこの映画のなかに、いよいよ“テレビがわが家にやってきた”というとき家庭の光景でそんな時代の雰囲気を滲ませている。テレビが来るとみんなは大喜びである。中学生の兄は何度もばんさいを叫ぶ、小学生の弟にいたっては嬉しさのあまりに、なんとフラフープを回して全身で喜びを表現している。このシーンを通じてその時代の雰囲気と喜びが感じられると思う。
また、こどもたちが互いの頭を小突くことによっておならを出す冒頭のシーンも面白い。こどもたちが楽しそうにこのかわった遊びをして、言葉のかわりに放屁で挨拶しているシーンである。屁の話だが、軽石粉を呑めばもっと勢いよく放屁できる、と鵜呑みにしてお腹を壊す実の友達がいる。映画の滑稽なファイナルシーンであるが、小津はそれにもメッセージを隠している。小津はこのシーンであいさつなんて放屁のようなものだと表したいかもしれない。
一言いえば、「おはよう」は独特のユーモアセンスで、団地やテレビ、フラフープなどが登場した昭和30年代前半、子どもたちのいたずらや親たちの日常会話を通して、当時の庶民の生活がいきいきと浮かび上がる作品だと思う。
参考文献
1.松竹映像版権室編、『小津安二郎映画読本(新装改訂版)』、フィルムアート社、1993年
2. 松竹映像版権室、『小津安二郎映画読本』、フィルムアート社
3.田中真澄、『小津ありき 知られざる小津安二郎』、清流出版、2013年
気になる点
◆「大人だって余計なこと言ってるじゃないか」
核となるストーリーはなく、主人公一家の向こう三軒両隣を中心に、昭和30年代の家族の暮らしと生活風景をコミカルタッチで表現している作品である。細かいエピソードを散りばめており、結構笑える。描かれる笑いは一般的な家庭の日常にあるものから、なんだか子供時代を思い出して懐かしくなる。部分的な笑いを例とあげれば、会費の件、子供たちの抵抗、宮沢さんの件が繋がっていくストーリーもしっかりしたもので、全く飽きさせない。「大人だって余計なこと言ってるじゃないか」のくだりが特に面白いと思う。
◆「一見余計に見えることも、実は大事だったりする」
映画の結論としては、「一見余計に見えることも、実は大事だったりする」ということである。例えば挨拶。これは、小津安二郎監督作品だからこそ重要だろう。小津作品にはしょっちゅう「そうかね」「そうですよ」「なるほど、そうなのか」なんていう会話が出てくる。
ラストシーンで、佐田啓二ふんする福井が、密かに思いを寄せる節子と偶然駅のプラットホームで出会う。しかしそこで福井は、「なんてことのない」天気の話をする。「あぁ、いいお天気ですね。」と福井はやり、それに対して節子も「本当、いいお天気。」と返す。いい天気が数日つづくかどうか、雲がなにかに似ているかなど他愛もないことばを繰り返す。最後に福井がふたたび、「いいお天気ですね。」とやり、それに対して節子も「本当に、いいお天気。」と返す。結局、節子への福井の想いは、「天気の話」にかくされてしまう。
本作は、こうしたどうでもいいような会話も実は大切であるという、監督からのメッセージだと思う。おそらく当時から「あんな会話はつまらん」という意見もあったが、それに対してそういう挨拶の表現は不可欠だと思う。
◆こどもたちが互いの頭を小突くことによっておならを出す冒頭のシーン
こどもたちが互いの頭を小突くことによっておならを出す冒頭のシーンはどういう意味だろう?この映画の中心的キャラクターである実がともだちに頭を小突かせて、勝ち誇ったようにおならをだす。それを何度か繰り返すという微笑ましいシーンである。こどもたちがこのかわった遊びをする理由は、実の友人の父がおならをつかって自分の妻をよぶからである。あいさつやなんてことのないことばは、実は肛門からもれる空気と代替可能であると小津はかたっているのではないだろうか。つまり、あいさつなんて放屁のようなものだ、と。この放屁のようななんてことのないことばを通してコミュニケーションが成立すると考えられる。
個人の解釈
お早うは小津安二郎が1959年監督した、大人と子供の世界を描いたカラー映画である。まず、面白い印象が残った、観ながら一人で ケタケタと笑ってしまった。 日常にあるような小さな事件を描いている話であるが、その日常がとても楽しく最後まで夢中になって見てしまう。ある男の子の兄弟が父親にお説教をされて、無駄なことを喋るなって言われたことを怒って、それから二人とも全く喋らなくなってしまう。その事件を中心に町内会の会費の問題やら、近所に住んでいるホステス風の女の問題やら、東野英治が定年して再就職したりとか、まぁ、狭い町内で色々とちっちゃな出来事がある。あと、子どもがおでこを押すとおならをしたり。その町内の雰囲気が何とも言えず、幸せな気分にさせてくれるわけである。
印象には、こういうシーンが残った、映画の少年たちの家にテレビがやってくる前に、主婦たちの間でどこかの家が電気洗濯機を購入したということが話題になる。冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビといえば「三種の神器」と称された。小津はこの映画のなかに、そんな時代の雰囲気を滲ませている。だが、なんといっても圧巻だったのは、いよいよ“テレビがわが家にやってきた”というとき家庭の光景である。とにかくみんな大喜び。家庭内や近所とのトラブルなどすべての問題は解決し、中学生の兄もなんどもバンザイを叫ぶ。小学生の弟にいたっては嬉しさのあまりに、なんとフラフープを回して全身で喜びを表現している。このシーンを通じてその時代の雰囲気と喜びが感じられると思う。
また、こどもたちが互いの頭を小突くことによっておならを出す冒頭のシーンも面白い。こどもたちが楽しそうにこのかわった遊びをして、言葉のかわりに放屁で挨拶しているシーンである。屁の話だが、軽石粉を呑めばもっと勢いよく放屁できる、と鵜呑みにしてお腹を壊す実の友達がいる。映画の滑稽なファイナルシーンであるが、小津はそれにもメッセージを隠している。小津はこのシーンであいさつなんて放屁のようなものだと表したいかもしれない。
一言いえば、「おはよう」は独特のユーモアセンスで、団地やテレビ、フラフープなどが登場した昭和30年代前半、子どもたちのいたずらや親たちの日常会話を通して、当時の庶民の生活がいきいきと浮かび上がる作品だと思う。
参考文献
1.松竹映像版権室編、『小津安二郎映画読本(新装改訂版)』、フィルムアート社、1993年
2. 松竹映像版権室、『小津安二郎映画読本』、フィルムアート社
3.田中真澄、『小津ありき 知られざる小津安二郎』、清流出版、2013年