『伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は、川端康成の短編小説。川端の初期の代表的作品で、19歳の川端が伊豆に旅した時の実体験を元にしている[1][2]。1926年(大正15年)、雑誌『文藝時代』1月号と2月号に分載された。単行本は翌年1927年(昭和2年)3月に金星堂より刊行された。なお、本作の校正作業は梶井基次郎がおこなった[3]。
日本人に親しまれている名作でもあり[4]、今までに6回映画化され、ヒロインである踊子・薫は、田中絹代から吉永小百合、山口百恵まで当時のアイドル的な女優が演じている。
孤独に悩み、人生の汚濁から逃れようと伊豆へ一人旅に出た青年が、湯ヶ島、天城峠を越えて下田に向かう旅芸人一座と道連れとなり、踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。青年の潔癖な感傷が踊子の清純無垢な心にあたたかく解きほぐされてゆく雪どけのような清冽さと、自力を超えるものとの格闘に真摯な若者だけが経験する人生初期のこの世との和解の切実さが描かれている[5]。
作品の背景として、主人公の青年である川端康成には、幼少期に身内をほとんど失っており、2歳で父親、3歳で母親、7歳で祖母、10歳で姉、15歳で祖父が死去し孤児となるという生い立ちがあったため[2]、本作中に「孤児根性」という言葉が出てくる。また当時、旅芸人は河原乞食と蔑まれ、作中にも示されているように物乞いのような身分の賤しいものとみなされていた[4][6]。
川端はこの伊豆の旅以来、湯ヶ島の「湯本館」に1927年(昭和2年)までの約10年間毎年のように滞在するようになり、1924年(大正13年)に大学を卒業してからの3、4年は滞在期間が、半年あるいは1年以上に長引くこともあった[7]。本作を執筆している頃は、湯ヶ島へ転地療養に来た梶井基次郎に旅館の紹介をし、一緒に囲碁に興じたり、本作の校正をやってもらっていたという[3]。また川端は、ほとんど宿賃を払わないまま湯ヶ島に滞在し続けたと言われ、川端の豪放磊落な一面が垣間見える[要出典]。
20歳の一高生の私は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れず、一人伊豆への旅に出る。私は道中で出会った旅芸人一座の一人の踊子に惹かれ、彼らと一緒に下田まで旅することになった。一行を率いているのは踊子の兄で、大島から来た彼らは家族で旅芸人をしていた。私は彼らと素性の違いを気にすることなく生身の人間同士の交流をし、人の温かさを肌で感じた。そして踊子が私に寄せる無垢で純情な心からも、私は悩んでいた孤児根性から抜け出せると感じた。
下田へ着き、私は踊子やその兄嫁らを活動(映画)に連れて行こうとするが、踊子一人しか都合がつかなくなると、踊子は母親から活動行きを反対された。明日、東京へ帰らなければならない私は、夜一人だけで活動へ行った。暗い町で遠くから微かに踊子の叩く太鼓の音が聞えてくるようで、わけもなく涙がぽたぽた落ちた。
別れの旅立ちの日、昨晩遅く寝た女たちを置いて、踊子の兄だけが私を乗船場まで送りに来た。乗船場へ近づくと、海際に踊子がうずくまって私を待っていた。二人だけになった間、踊子はただ私の言葉にうなずくばかりで一言もなかった。私が船に乗り込もうと振り返った時、踊子はさよならを言おうしたが、止してもう一度うなずいて見せただけだった。船がずっと遠ざかってから踊子が艀で白いものを振り始めた。私は伊豆半島の南端がうしろに消えてゆくまで、沖の大島を一心に眺めていた。船室で横にいた少年の親切を私は自然に受け入れられるような気持になり、泣いているのを見られても平気だった。私は涙を出るに委せ、頭が澄んだ水になってしまって、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。
年齢は数え年
私
20歳。一高の学生。学校の制帽で、紺飛白の着物の袴をはき、学生鞄を肩にかけた格好で伊豆の一人旅をしている。湯川橋の近くで旅芸人の一行に出会う。再び天城七里の山道で出会い下田まで一緒に旅する。湯ヶ野で鳥打帽を買い、制帽は鞄にしまう。歯並びが悪い。東京では寄宿舎に住む。
踊子(薫)
14歳。当初「私」には17歳くらいに見える。旅芸人一座の一員。古風に結った髪に卵形の凛々しい小さい顔の初々しい乙女。若桐のように足のよく伸びた白い裸身で湯殿から無邪気に手をふる。五目並べが強い。美しい黒髪。美しく光る黒眼がちの大きい眼。花のように笑う。尋常小学校二年までは甲府にいたが、家族と大島に引っ越す。小犬を旅に同行させている。
男(栄吉)
24歳。踊子の兄で旅芸人。旅芸人たちは大島の波浮港からやって来た。栄吉は東京で、ある新派役者の群に加わっていたことがある。実家は甲府にあり、家の後目は栄吉の兄が継いでいる。幼い妹にまで旅芸人をさせなければならない事情があり、心を痛めている。大島には小さな家を二つ持っていて、山の方の家には爺さんが住んでいる。
上の娘(千代子)
19歳。栄吉の妻。流産と早産で二度子供を亡くした。二度目の子は旅の空で早産し、子は一週間で死去。下田の地でその子の49日を迎える。
40女(おふくろ)
40代くらい。千代子の母。薫と栄吉の義母。薫に三味線を教えている。生娘の薫に、男が触るのを嫌がる。国の甲府市には民次という尋常五年生の息子もいる。
中の娘(百合子)
17歳。雇われている芸人。大島生れ。はにかみ盛り。
茶屋の婆
天城七里の山道の茶店の婆さん。爺さん(夫)は長年中風を患っている。一高の制帽の「私」を旦那さまと呼び、旅芸人を「あんな者」と軽蔑を含んだ口調で話す。
紙屋
宿で「私」と碁を打つ。紙類を卸して廻る行商人。60歳近い爺さん。
鳥屋
40歳前後の男。旅芸人一行が泊まっている木賃宿の間を借りて鳥屋をしている。踊子たちに鳥鍋を御馳走する。「水戸黄門漫遊記」の続きを読んでくれと踊子にせがまれるが立ち去り、「私」が代りにそれを読んで踊子に聞かせる。
土方風の男
鉱夫。帰りの霊岸島行きの船の乗船場で、「私」に声をかけ、水戸へ帰る老婆を上野駅まで連れてやってほしいと頼む。
老婆
蓮台寺の銀山で働いていた倅とその嫁をスペイン風邪で亡くす。残された孫三人と故郷の水戸へ帰えるため、乗船場まで鉱夫たちに付添われている。
少年
河津の工場主の息子。東京へ帰る船で「私」と出会う。一高入学準備のために東京に向っていた。泣いている「私」に海苔巻きすしをくれ、着ている学生マントへもぐり込ませ温めてくれる。
川端康成は本作について、「『伊豆の踊子』はすべて書いた通りであつた。事実そのままで虚構はない。あるとすれば省略だけである」[8]と述べている。また、「私の旅の小説の幼い出発点である」[8]とも述べている。川端が伊豆に旅したのは、一高入学の翌年1918年(大正7年)の秋で、寮の誰にも告げずに出発した8日ほどの旅であったという[1]。このときの体験を『湯ヶ島の思ひ出』という素稿に書き、『伊豆の踊子』、『少年』、『ちよ』などの作品へ発展していった[1]。川端は旅に出た動機について、「私は高等学校の寮生活が、一、二年の間はひどく嫌だつた。中学五年の時の寄宿舎と勝手が違つたからである。そして、私の幼年時代が残した精神の病患ばかりが気になつて、自分を憐れむ念と自分を厭ふ念とに堪へられなかつた。それで伊豆へ行つた」[9]と述べている[1]。
奥野健男は、次々と肉親を亡くした川端康成が幼い頃から死者に親しみ、あたたかい庇護を受けることのなかった生い立ちがその作風に及ぼした影響について、「孤児川端康成の心は、この世の中で虐げられ、差別され、卑しめられている人々、特にそういう少女へのいとおしみというか、殆んど同一化するような感情が、その文学の大きなモチーフになって行く」[4]と述べ、『伊豆の踊子』については、「温泉町のひなびた風土と、日本人の誰でもが心の底に抱いている(そこが日本人の不思議さであるのだが)世間からさげすまれている芸人、その中の美少女への殆んど判官びいきとも言える憧憬と同一化という魂の琴線に触れた名作である」[4]と評している。そして作中で踊子が茶屋の婆さんから蔑まれ、村々の入口に物乞い同然のように進入禁止の立札されていたことを挙げつつ、芸人が徳川時代、河原者などと卑賎視されたことと、その反面、白拍子を愛でた後白河法皇が『梁塵秘抄』を編纂したように、芸人と上流貴族とは「不思議な交歓」があり、能、狂言、歌舞伎などが次々と上流階級にとりいられてきた芸能史を解説し、『伊豆の踊子』は、そういった芸人に対する特別のひいき・憧憬という古来から通底する日本人の心情を、新たに現代に生かした作品だと評している[4]。なお、この奥野の論は、数ある『伊豆の踊子』論の中でも、日本の芸能史、フォークロアをよく踏まえているものであると指摘され[10]、それを敷衍し、漂流者として芸人と定住者との関係性、マレビトである漂泊芸人の来訪が、「神あるいは乞食」の訪れとして定住民にとらえられ、芸能を演ずる彼らの姿に「神の面影」を認めながらも、「乞食」と呼ぶこともためらわない両者の関係性に発展させた『伊豆の踊子』論も北野昭彦によって展開されている[10]。
また奥野は、主人公である「私」には、卑賎視されている者の中にある「美しいもの」、社会制度や格式の偽りの世界とは違う素朴なひなびた、「もっとも自然で美しいもの」に触れたいという思いがあるとし、「権力者や無知で暴力的、俗物的大衆からも犯されそうな危機にある美しさ」故に、「私」は踊子を、より可憐で、たまらなく心をひくものとしていると述べ、そのモチーフは、実は多くの日本人がひとしく心の底に抱いている「秘密の心情」であり、それが「日本の美の隠れた源泉」であると論じている[4]。そして、本作が何度も映画化される理由については、単に伊豆の旅情や青春のプラトニックな恋愛といった表層的なものでなく、「日本人の心情の底にある、おそらく古代からの農耕民が、放浪の遊芸人に抱く、縄文時代からの深層意識にある憧憬と贖罪の意識、つまり日本人の芸や美の根源にかかわるものを表現しているからであろう。日本人は吉永小百合を山口百恵を桃割れの踊子の姿にし、親しくつきあえ、恋することのできる少女に姿にせずにはいられないのだ」[4]と解説し、主人公の青年が雨の夜、踊子が旅客に犯されている妄想に悩んだ翌日の朝、踊子の裸身を見て安心する場面について触れながら、「若桐のごとき爽やかに幼い踊子の裸身を見てことことと笑うあたりは何度読みかえしてもたのしい。作者の青春と踊子の青春がまだ青さ故に、美しく結晶した稀有の作品と言えよう」[4]と述べている。
橋本治は、主人公の青年が最後に泣き続ける意味について、踊子とエリートの卵という「身分の差」の垣根や、冷静を装って踊子の姿をじっと観察していられる余裕もなくなってしまう恋という感情、ただその人にひれ伏すしかなくなってしまう感情を主人公が内心認めたくなく、冷静に別れたつもりだったはずが、「船から遠ざかって行く“はしけ”の上で白いハンカチを振っている踊子の姿を見て、プライドの高い“私”は、ついに恋という感情を認めた」[6]と解説している。そして、「ただ彼女といられて幸福だった」という感情を、何の身分の差のない少年をまるで踊子とつながる人間でもあるかのように、そのマントに包まれながら主人公は認めたとし、「『伊豆の踊子』は、恋という垣根を目の前にして、そして越えられるはずの垣根に足を取られ、自分というものを改めて見詰めなければどうにもならないのだという、苦い事実を突きつけられる」[6]と述べ、その「青春の自意識のつらさ」を描いて、『伊豆の踊子』は永遠の作品となっていると解説している[6]。
三島由紀夫は、川端康成の全作品に重要な主題である「処女の主題」の端緒の姿が『伊豆の踊子』にあらわれているとし[11]、主人公が見る踊子の描写を引きながら、「これらの静的な、また動的なデッサンによって的確に組み立てられた処女の内面は、一切読者の想像に委ねられている」[11]と述べ、この「処女の主題」のおかげで川端は、同時代の作家が悉く陥ってしまった浅はかな似非近代的心理主義の感染を免かれていると解説している[11]。そして世間ではその川端の文章表現を、「抒情」などと呼ぶが、『伊豆の踊子』の終局に見られる「甘い快さ」は単に抒情といえるものではなく、むしろ反抒情的なものであると三島は述べ[11]、『伊豆の踊子』を「見事な若書の小説」と讃辞しながら、この作品は「甘い快さ」だけでは成立しないことの証明として書かれたようなものであると解説している[11]。そして、「若書」という言葉に善い意味をつけられるなら、と前置きし、『伊豆の踊子』は日本の作家が滅多にもたない若さそれ自体の未完成の美をもっているが故に、決して作品の未完成を意味しない真の若書ともいえるべき作品であると高い評価をしている[11]。
また三島は、処女の内面は本来表現の対象たりうるものではなく、処女を犯した男は決して処女について知ることはできず、また処女を犯さない男も処女について十分に知ることはできないと述べ[11]、「しからば処女というものはそもそも存在しうるものであろうか。この不可知の苦い認識、人が川端氏の抒情というのは、実はこの苦い認識を不可知のものへ押しすすめようとする精神の或る純潔な焦燥なのである」と、川端の「抒情」を説明し、それは焦燥であるために一見あいまいな語法が必要とされるが、しかしそのあいまいさは正確なあいまいさであると、その表現方法を解説している[11]。さらに三島は、「ここにいたって、処女性の秘密は、芸術作品がこの世に存在することの秘密の形代(かたしろ)になるのである。表現そのものの不可知の作用に関する表現の努力がここから生れる」と、芸術論と関連させ川端の「処女の主題」の不可知論を展開させている[11]。
北野昭彦は物語が進行するにつれ、主人公が、「娘芸人のペルソナを外した少女の<美>」自体を語るのが目的であるかのようになるとし、踊子の「私」に対するはにかみや羞らい、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔、「私」の袴の裾を払ってくれたり、下駄を直してくれたりする甲斐甲斐しさなどを挙げ、踊子の何気ない言葉で、「私」が本来の自己を回復していたことに気づき、小説タイトルの通り、踊子像そのものを語る展開となっていると解説している[10]。そして北野は、その時々で多面的に変容する「私」の見る踊子像について、「彼女は、ユングが元型的形象の一つとしてあげた<コレー像>に似ている。コレーとは、少女、母、花嫁の三重の相において現れる永遠の乙女である」[10]と述べ、ユングが説いているところの、「コレー像は未知の若い少女として登場」[12]し、「しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である」[12]という言説を紹介している[10]。
主人公と踊子が乗船場で別れる場面で、さよならを言おうとして止めて、ただうなずいたのがどちらであるかが、主語が書かれていないため、川端の元へ読者からの質問が多数寄せられたという問題点があった。
これについて川端康成は、主語は「踊子」であるとし、「はじめ、私はこの質問が思ひがけなかつた。踊子にきまつてゐるではないか。この港の別れの情感からも、踊子がうなづくのでなければならない。この場の『私』と踊子との様子からしても、踊子であるのは明らかではないか。『私』か踊子かと疑つたり迷つたりするのは、読みが足りないのではなからうか」[8]と答えている。そして川端は、「『もう一ぺんただうなづいて見せた』で、『もう一ぺん』とわざわざ書いたのは、その前に、踊子がうなづいたことを書いてゐるからである」と説明し、「『私が』の『が』は、『さよならを言はうとした』のが、私とは別人の踊子であること、踊子といふ主格が省略されてゐることを暗に感じさせないだらうか」[8]と述べている。なお、英訳ではこの部分の主語が、“I”(私)と誤訳されてしまっている[13]。
そして川端はあえて新版でも、この主語を補足しなかった理由については、その部分が気をつけて読むと、不用意な粗悪な文章だからだとし、主格を補うだけではすまなくなり、そこを書き直さねばならないと思えたからだと述べ[8]、「『伊豆の踊子』はすべて『私』が見た風に書いてあつて、踊子の心理や感情も、私が見聞きした踊子のしぐさや表情や会話だけで書いてあつて、踊子の側からはなに一つ書いてない。したがつて、『(踊子は)さよならを言はうとしたが、それも止して』と、ここだけ踊子側から書いてあるのは、全体をやぶる表現である」[8]と説明し、「主格の一語を補ふだけですまなくて、旧作の三四行を書き直さねばならないとなると、私は重苦しい嫌悪にとらへられてしまふ。もし仔細にみれば、全編ががたがたして来さうである」[8]と述べている。
高本條治は、この踊子の主格問題に関する川端の、「全体をやぶる表現」という言及の意味について、「私」が見た風に書くという「語りの視点」を全篇を通して一貫させるべきであったというのが、小説家としての川端の反省的自覚であったと述べている[13]、そして高本は、読み手は、この作品の冒頭から末尾まで、主人公の「私」に同化し、「私」に感情移入し「私」になりきって解釈処理を続けているのであるから、それが、小説の最後近くになり、たった一箇所だけ、「語彙統語構造に表れた結束性の手がかりに従う限りにおいて、『私』以外の人物と同化した視点」で語られたと解釈できる部分が混入していると、ほんの時間つぶしに軽く流し読みをするような読み手以外の者にとっては、その労力を支払っただけの代償効果が追求され、川端がのちに自覚したように「語りの視点」の不整合性が問題となるとし[13]、川端が犯した不用意な視点転換は、そのことに注意を向けることができるだけの認知能力をもつ読み手にとっては、重大な解釈問題として顕在化されていると論じている[13]。
これに対しやや違った論点から、この視点転換問題をみる三川智央は、川端は、この別れの場面を何の問題を感じることもなく執筆し、ほとんど無意識的に、「(踊子は)さよならを言はうとした」と表現しており、主人公の「私」は、言わば一種の〈狂気〉の状態で踊子との間に暴力的ともいえる一方的なコミュニケーションを夢想しているにほかならないとし、このことは同時に、物語世界内の「私」と、語り手である「私」の自己同一性の崩壊、「私」そのものの崩壊をも意味していると解説している[14]。
そして三川は、「そこでは『私』と踊子の<離別>とともに、まるでそれを阻止するかのように『私』と踊子の心理的<一体化>が示される」[14]と述べ、それは、あくまで現実世界の解釈コードでは認識不能な<事実>として、「『私』の踊子に対する一方的な一体化の夢想」として呈示され[14]、「私」の意識の肥大化と<他者>である踊子の抹殺とを前提としているが、読者である私たちには、解釈コードの組み替えによってそのような「私」の<暴力性>が隠蔽され、<抒情的空間>とでもいうべきものとしての物語世界を辛うじて受け入れることになると解説している[14]。そして『伊豆の踊子』は、いわゆる一般的な一人称小説のように、「自己の<過去の事実>を先行する物語内容として「語り手」という人格的言表主体が物語行為を遂行するという構造」などには還元できないとし[14]、「むしろそのような主体を疎外する<語り>そのものの<力>によって支えられているのであり、多重的な<語り>の葛藤によって生じた軌跡として形を与えられているに過ぎない」[14]のであるから、物語内容の物語言説に対する優位性という従来的な仮構は、そこでは既に崩壊してしまっていると、三川は論じている[14]。
· 文庫版『伊豆の踊子』)(付録・解説 竹西寛子、三島由紀夫)(新潮文庫、1950年。改版2003年)
· 文庫版『伊豆の踊子』(付録・解説 奥野健男、橋本治)(集英社文庫、1977年。改版1993年)
· 『新潮日本文学アルバム16 川端康成』(新潮社、1984年)
· 『新潮日本文学アルバム27 梶井基次郎』(新潮社、1985年)
· 北野昭彦『「伊豆の踊子」の<物乞ひ旅芸人>の背後――定住と遍歴、役者と演劇青年、娘芸人と学生』(日本言語文化研究、2007年3月) [1]
· 高本條治『ただうなずいて見せたひと――川端康成「伊豆の踊子」の語用論的分析』(上越教育大学研究紀要、1997年3月) [2]
· 三川智央『伊豆の踊子』再考――葛藤する<語り>と別れの場面における主語の問題』(金沢大学国語国文、1998年12月) [3]
有名な『伊豆の踊り子』の書き出しだ。主人公の「私」は、その「期待」どおり心ひかれる踊り子の一行と道連れになり、彼等と親しむことで「孤児根性」の欝屈から解放される、というのが物語のあらすじだ。 |
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伊豆の踊り子』の教科書への登場は昭和三十年代からで、当初は中・高どちらにも採られていた。昭和四十年代では一五社中五社が採録するほどの人気だった高校でも、その後次第に減って現在の採録は一社だけだし、中学では昭和五十年代からは姿を消した。原作の人気は依然として高いようだから、教材としての人気とズレのある例だろう。 |
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教材化に際しては、茶屋のじいさんや行商人等の本筋ではない人物や、共同湯から踊り子が真裸で飛び出して来る場面、さらに旅芸人への蔑視を示す場面などはカットされるのが通例だった。しかしそれらはいずれも作品の本質にかかわる大事な場面だから、割愛しての教材ではどうしても弱くなる。 |
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最近の大修館版『国語Ⅰ』では、真裸で飛び出して来る踊り子の場面などが原作どおりの採録となって、それは一歩前進だ。しかし「物乞い旅芸人村に入るべからず」の部分などが、いまだにカットされているのは残念なことだ。原作ではその立札をはじめ登場人物の何げない言葉をとおして、踊り子一行の旅がどれだけ蔑視や偏見に包まれながらだったかが描かれている。そうした背景があってこそ「好奇心もなく軽蔑も含まない」主人公の態度が彼らとの心の通い合いをもたらし、孤独感からも解放してくれたはずである。 |
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旅情、淡い恋、青春の哀歓などという「甘い」言葉で語られがちな作品だが、貧困や偏見といった社会的背景や、絶望的な孤独感に陥っていた作者の現実に、もっと注意を払う教材化が望ましいのではないか、と思う。 |
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大前提として、この時代、旅芸人、芸人、踊り子というのは下賤の仕事とみられていました。女で旅をし、芸を見せるものは春をひさぐのが当たり前の時代を経、この時代も風俗として残っていました。ま、白拍子等、調べていただくと判りますが。
で、まずは、貴方の最初の疑問ですが、自らが買春するか単に守るか、という二拓ではありません。要は、他の男に汚されたくはないということで、意識下にあるのは、性ではなく恋であり所有欲です。踊り子と体の関係になりたいか否かは問題ではない。私は恋が成就することを願ってはいますが、それが体の関係とは限らない。しかし、否応なく「性」の問題が「踊り子」という職業柄、介在してきてしまうということです。
他の方がご指摘ですが、風呂で全裸で手を振る踊り子を私が見て、まだ子供なのだと思ったという部分、しかしそれで何かが解決するわけではありません。その時はそう思ったというだけで、後段で私の気持ちは揺れ動きます。朝、踊り子たちが寝ている宿に出かけ、昨夜の化粧を残したままの踊り子を見たときの私は、当然踊り子の化粧姿に「成人女性としての資質」を見るわけですし、踊り子の一座がお屋敷に呼ばれた夜、太鼓の音が消えた後、踊り子の夜が汚されるのではないかと思ったり。踊り子の母が娘を「生娘だ」、あるいは「今声変わりの途中だ」と言いますが、これはもう踊り子が少女ではな成人女性になりつつあるのだという表現ですね。こうして「性の問題」を考えざるを得ないがゆえに、悲恋がその輝きを増すということであって、踊り子と寝たいということではありません。
もう一点、差別問題についてですが、この小説は、当初あった差別意識が氷解してゆくという筋立てです。私は「一校の制帽」をかぶって登場します。東京大学の予備門の制帽ですからエリート意識があるということです。すなわち差別意識はあるということですね。踊り子達と旅をともにし、踊り子の連れの男に二階から金を放り投げて「柿でも食べて下さい。」と告げる箇所があります。これは私の差別意識が未だ残っていることを表現しています。しかし途中、「私」は一校の制帽をかぶるのをやめて、鳥打帽を買ってかぶります。これは、庶民の帽子。つまりは差別意識を捨てたという表現なのです。他に踊り子たち一行に対して軽蔑の意識を持っていない旨が書かれているとはいえ、帽子や金などの記号を配して変化を著わすのが小説の技法ですから注目して読んでみてください。最後に港での別れの箇所で、その鳥打帽を踊り子の連れの男にかぶせ、プレゼントしますね。これは当然、「貴方と私に身分の差はないと思っている」という表明であり、同時に私が一校の帽子を取り出してかぶるのは、勉学が本文の学生に戻るという、踊り子一行との「別れ」の意味にすり替わり、差別意識とは無縁のものとなっているのです。帽子をかぶって登場し、途中で脱ぎ、最後はまた帽子をかぶって物語から退出する。小説の世界でこのようにあるモノや記号を最初と最後に登場させるという構造を持たせることがよくあります。この作品では、最初に登場する帽子はエリート意識を示し、最後に登場する帽子は意味が変容して、元の生活に戻るという記号に変質しています。男と私がお互いに帽子をかぶって笑いあうというのは、社会には身分違いという因習が残ってはいるが、彼らの中では解消しているという表現で、私だけに限るとこれは主人公の成長なのです。
この作品から川端康成その人の差別に対する意識を読みとろうというのは正しくありません。ここに描かれているのは、自らが20歳の折に経験した差別意識の氷解の軌跡であって、差別はいけないという主張ではありません。差別というのはこの小説では悲恋の条件です。「恋愛小説」の中で、「悲恋」というジャンルがあり、その悲恋性を担保するのが「身分違いという環境=差別」なのです。
差別を中心的な主題として書くならば、背景を執筆時期と同時代とし、「現代の問題」とするでしょうが、本作は回顧譚のような体裁を取っていますので、差別を「問題」としてとりあげているわけではないのです。もちろん差別に対しては否定的なのですが。切り取り「伊豆の踊子」
先日の日曜(1998.09.06)の「朝日新聞」読書面「本よみの虫干し」で、関川夏央氏が川端康成の「伊豆の踊子」を取り上げていました。要旨は、「伊豆の踊子」は「純愛小説」と認識されているが、いま読み返すと、ずいぶん性的である、主人公の「私」は、踊子を追いかけるストーカーの一種である、というようなことでした。
これを読んで、思わず膝をたたきました。そうなんですね。僕も高校の国語で「純愛小説」として教えられました。教科書だった大修館書店の『高等学校 国語I』(1983.04再版)を読むと、純愛小説ととられてもしかたがない扱われ方です。
ところが、当時、高校の図書室で文学全集の川端康成の本を開き、この「伊豆の踊子」には教科書には載っていない部分がかなりあることに気づき、驚いたことがあります。
それらの部分が削除されたのは、スペースの関係もあるでしょうが、一番の理由は「教科書にふさわしくないから」でしょう。まず、性的な場面は載せない。それから、旅芸人一行がいやしめられている表現は載せない。この2つの基準があるようにみえます。
ところが、これを取ってしまうと、「伊豆の踊子」の話が非常に曖昧模糊としてくるんですね。
主人公の「私」は、初め踊子を誤解していた。茶屋の婆さんの「お客があればあり次第、どこにだって泊るんでございますよ」という〈甚だしい軽蔑を含んだ〉ことばにあおり立てられ、「それならば、踊子を今夜は私の部屋に泊らせるのだ」と思ったほどで、踊子を性的対象とも見ていたわけだ。芸人一行がいやしく描かれているため、「どこにだって泊る」という婆さんのせりふが、より性的な色合いを帯びる。
もっとも、この部分は教科書にも出ています。ただ、その後、「私」は宴会の模様をうかがいながら、踊子が色を売るのかと焦燥するのですが、その場面は削除されています。
やがて、皆が追っかけっこをしているのか、踊り廻っているのか、乱れた足音が暫く続いた。そして、ぴたと静まり返ってしまった。私は眼を光らせた。この静けさが何であるかを闇を通して見ようとした。踊り子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった。
雨戸を閉じて床にはいっても胸が苦しかった。また湯にはいった。湯を荒々しく掻き廻した。雨が上って、月が出た。雨に洗われた秋の夜が冴え冴えと明るんだ。跣で湯殿を抜け出して行ったって、どうとも出来ないのだと思った。二時を過ぎていた。(新潮文庫『伊豆の踊子』 p.17)
自分の思う少女が、客に色を売っているかもしれぬという煩悶! これが「伊豆の踊子」の前半の白眉だ。これをカットしてしまっては、後で踊子の年を知ったとき、なぜ「私はとんでもない思い違いをしていたのだ」と〈ことことと笑い続けた〉のかが分からなくなる、少なくとも分かりにくくなります。
こうやって、人畜無害に変えられた小説ばかりを読むのが国語の時間であるのか。名作「伊豆の踊子」はお子様ランチ的「伊豆の踊り子」(なぜか「り」が入る)となり、無類の痛快小説「坊っちやん」は、少年期の追憶物語「坊ちゃん」となり(なぜか「っ」が抜ける)、また、すきあらば他人の奥さんを取ろうとする話ばかり書く夏目漱石は、則天去私の高踏派文豪として教えられる。
これで生徒に国語ぎらいが出てこないほうがおかしいではありませんか。
とても有名な作品、いい歳をして初めて読んだ。初出は『文芸時代』大正15年(=1926年)1・2月で、この作品名を表題とした短篇集は、翌年の昭和2年(=1927年)3月に出ているようだ。手許にあるのは新潮文庫で、奥付には<平成15年5月5日 129刷改版>(原文漢数字)とある。(画像は出てこないから岩波文庫版。)
<二十歳の旧制高校生である主人公が孤独に悩み、伊豆へひとり旅に出かけるが、途中旅芸人の一団と出会い、一行中の踊子に心を惹かれてゆく。人生の汚濁から逃れようとする青春の潔癖な感傷は、清純無垢な踊子への想いをつのらせ、孤児根性で歪んだ主人公の心をあたたかくときほぐしてゆく。雪溶けのような清冽な抒情が漂う美しい青春の譜である。ほかに『禽獣』など3編を収録。>(カバー背より)
冒頭のへん、作中に初登場してくる踊子(@天城峠の茶屋)があとから来た「私」に、座蒲団をひっくり返して渡している。たんに常識(礼儀作法)からかもしれないけれど、早くも「?」な感じで、以降ずっと、いちいち細かい箇所に引っかかる読み方に…(涙)。ひと言でいえば、頭もスッキリ清涼感あふれる青春小説? うーん…、とりあえず時間をおいていつかまた、無心になって読んでみたいな。――キーワードなのかどうなのか、個人的には<水>がいちばん気になったけれど、あと<鳥>とか<紙>とか、季節だけれど<秋>とか(秋つながりでは<柿>とか)<金>とか、そういう何度か繰り返される(から気にもなる)物や言葉がけっこうある。解説、解釈している文芸評論とか論文とか、謎解き本もたくさんありそうだけれど(読んでみたいけれど)、ここでは、とりあえず(<鳥>には関係するけれど)個人的にちょっと気になる“帽子”について少し触れておきたい(というか、以下、記憶力がない自分のための備忘メモようなものです)。
「私」は最初、<高等学校の制帽>をかぶっているのだけれど、途中で<鳥打帽(とりうちぼう)>を購入している(制帽は<学生カバン>にしまっておく)。もともと文字どおり鳥を打つさいにかぶる帽子? 要するに「私」がとりこになった踊子(おどりこ)=鳥(あるいは小鳥)なのかな? 山越えのさいに(節番号でいえば「五」)、上りでは踊子は「私」の後ろを歩いている。前を行ったり、並んだりすると「私」に“打たれてしまう”から?(読んだことがないけれど、噂によれば『ゴルゴ13』って背中を見せないんだっけ?)。一方、下りでは踊子を含めた女性たちが「私」の前を歩いているけれど、「私」の近くには兄の栄吉がいて――お兄ちゃんが「私」のストッパー役に?(違うか)。えーと、時間を戻して、「私」が鳥打帽をかぶり出す前日の話。一行が湯ヶ野に着いた翌日の午前9時すぎ、やってきた栄吉と湯につかっていると(「私」と芸人たちとは別々の宿)、川を挟んで向こうの共同湯に女たちが入っていて――引用したほうが早いか(とても有名な場面らしい)、「私」は踊子に対して、髪形などから17歳(か18歳)くらいだと見当をつけていたのだけれど、
<仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に河岸へ飛び降りそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことことと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一ぱいに伸び上がる程に子供なんだ。私は朗らかな喜びでことことと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。>(pp.20-1)
というひとコマがある。のちほど踊子は栄吉によって14歳だと知らされる(そういえば、そもそも「私」の20歳も含めて、すべて数え年?)。手を伸ばしている方向とか、叫んでいる内容とかはよくわからないけれど、でも、描写のされ方がちょっと鳥っぽい気がする(個人的には)。あ、でも、鳥であるとすると色が白い…というのはちょっと変かな。それで、この翌日(の午前8時ごろ)「私」は、踊子から何かしらの影響を受けたのか、共同湯の横で鳥打帽を買っている。だから、えーと…、自分でも何が言いたいのかよくわからないけれど(汗)、「子どもから大人へ」ではなくて、逆に「大人から子どもへ」なのかな?(違うか)。
ところで、その昔、「鳥打帽」には「浪人生」という意味があった――と言われたらちょっと驚きます?(そもそも「鳥打帽」を知らなければ驚けないかも)。竹内洋『立志・苦学・出世 受験生の社会史』(講談社現代新書、1991)によれば、
<(略)過年度卒業生を指す浪人という言葉がいつごろから使われるようになったかは不明だが、おそらく大正末期からであろう。この時代に高校生の帝国大学や官立大学への進学難が生じ、再受験者は「白線浪人」(高校の制帽に白線が入っていた)と呼ばれるようになったからである。「浪人」という言葉が使われる前は、過年度卒業生には制帽がなく、鳥打ち帽を被っていたことから「鳥打ち帽」と呼ばれていた。>(p.72)
とのこと。個人的には本当かな? とちょっと疑問に思ってしまうけれど、でも信じるとすれば、要するに、
「鳥打ち帽」→「白線浪人」(高卒浪人限定)→「浪人」(中卒浪人でもOK)
という感じか([追記]私は誤読をしている? 上の引用部分は、すでに受験浪人という意味の「浪人」という言葉があって、その上で「白線浪人」という言葉ができた、みたいな意味かな?)。「伊豆の踊子」の発表年は、文字どおり大正末(=大正15年)。微妙な時期だよなぁ…。というか、明治・大正の当時、「鳥打帽」と聞いて「浪人(生)」の意味を思い浮かべられた人って、いったいどれくらいいたのかな? もしかしたら隠語あるいは俗語で、日本全国、ほとんどの人には通じない言葉だったりして。…結局、また疑っている(汗)。でも(ちょっと開き直って)個人的には、高校生の「私」が制帽(白線帽)を脱いで、代わりに鳥打帽をかぶる――というのは、たんに高校生でなくなること(脱-高校生)を意味するだけでなく、ちょっとした若返りというか子ども化というか、年齢的な退行(逆行)も意味している、と考えておきたい。
下田(旅芸人たちの家は大島にある)に着いて、最後の別れの場面。そう、「私」の帰らなければ発言が唐突に感じるのは、私の場合、ちゃんと“読めていない”から?(涙)。「私」は船で帰っていくのだけれど、見送りには栄吉と踊子(名前は「薫」)の兄妹が来てくれる。栄吉は「私」に、敷島四箱(煙草)と柿(船酔いには蜜柑より柿がいいらしい)と口内清涼剤<カオール>(駄洒落というか残念賞?)をあげる。「私」は替わりに(?)栄吉に鳥打帽をあげて、自分はカバンの中からしわくちゃになっていた制帽を取り出す。船が離れていくと、栄吉はもらった帽子を振ってみせ、船がもっと遠ざかると踊子は、何か<白いもの>を振ってくる(なんだよ<白いもの>って!)。
船のなかでは(草枕ではなくて)鞄枕というか、カバンを枕にして横たわって「私」は泣くのだけれど(そう、<カバン>は踊子の<太鼓>と対になっているっぽい)、濡れたカバンをひっくり返すと(読者にとってはちょっと唐突に)<少年>が現われてくる。少女ではなくて今度は少年。
<(略) 涙がぽろぽろカバンに流れた。頬が冷たいのでカバンを裏返しにした程だった。私の横に少年が寝ていた。河津の工場主の息子で入学準備に東京へ行くのだったから、一高の制帽をかぶっている私に好意を感じたらしかった。(略)>(p.44)
自然に読めばこの少年は、高校受験生? 季節が秋なので、個人的にはもう一歩進めて「浪人生」認定してしまいたいけれど、そうでない可能性もあるかな…。手許の文庫本では<今度の流行性感冒>(p.43)という箇所に注が付いていて、<スペイン風邪・大正風邪と呼ばれた有名なもので、大正七年の秋から世界的に流行し、大正八年冬には日本全国で患者百五十万、死者十五万を出した。>と書かれている(p.175)。ということは、作中年は、大正7年か大正8年(=1918年か1919年)になる? 当時、一高を始めとする旧制高校はまだ7月入試(9月入学)かな(大正10年から4月入学?)。久米正雄「受験生の手記」(1918、作中年はもっと前)で4月入試と書かれている「高工」って、いまでいえばどこ大学?(ま、細かいことはいいか(汗)。でも、入試が3月ではなくて4月って? 入学月は?)。あと、もういわゆる「四修」(中学四年修了)でも受けられた時期かな?(少数派だろうけれど、四修のまま、中学校(5年制)を卒業しない人もいるから。「浪人生」を「過年度卒業生」という言葉を使って定義しようとすると、ちょっと問題になる)。あ、<入学準備に東京へ行く>というのは、たぶん予備校に通うため、だと思う(それ以外の可能性はあまりないような気が)。あと、「再受験者」かどうかも、気になるポイントかな。これも、書かれていないのでわからない(でも、この少年に当てはまる、当時の高校受験生に多そうなパターンとしては「3月に中学を卒業、7月に高校を受験→不合格、秋に上京して予備校へ」というものかもしれない。ただ、その場合、落ちてすぐに上京しなかった理由がわからないけれど)。
で、船内では、少年(=未来の後輩?)の上京エネルギー(=海苔巻のすし)を「私」は分けてもらっていて(替わりに柿でもあげればいいのに…って、それじゃ「さるかに合戦」みたいだな(汗))、さらに少年の<学生マント>(高校生用マントではなくて中学生用マント?)にもぐり込ませてもらっている。――で、だから結局、どういうこと?
東京で高校生(孤児根性)=大人 → 地方で浪人生(純粋)=子ども → また東京で高校生=大人に
みたいな話?(ぜんぜん違うか、特に「浪人生」という箇所(汗))。
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関係ないけれど(書いておかないと忘れてしまいそうなので)、講談社文芸文庫から出ている川端康成『文芸時評』(2003)をぱらぱらと見ていたら、昭和9年(=1934年)2月のところで、丸岡明「柘榴の芽」(『文芸春秋』)という作品が取りあげられていて、
<(略)中学を出たばかりの少年と青年との間の男が、その年頃の不安に追われて、神戸のスイス人の家庭を訪れ、その家の少女への淡い思慕に慰められるという風のことを、(略)>(p.205)
と書かれている。丸岡明(中学卒業後に2浪→慶応予科)だし、この中学を卒業している「男」は浪人生かもしれない。「伊豆の踊子」を読んだあとだし、ちょっと読んでみたいな(何か地元図書館にある本で読めるかな…)。