摘要
我々は日本文化を考察する時、日本中世文化の内包は、ほとんど中国禅宗の移入に伴って自然に輸入された中国宋元風文化の影響が窺がわれる。禅の理念や思想を含める禅宗文化は、日本文化の各方面に広く且つ深く浸透し、また大きな影響をもたらした。しかも、この時期に形成された中世文化の主な内包は、ほとんど見事に継承され、後世にまで影響を及ぼし、日本文化の代表的なものとしてずっと今日にまで至ってきたのである。だから、その日本文化史における位置づけや持つ意味の重要性は容易に理解されるはずである。本文は中国禅宗文化が日本文化への影響を中心として、対比し論述した上に、具代的な影響を発掘し、日本中世文化についての研究に用があることを望んでいる。
禅宗とは、達磨がインドから中国に伝えて成立したとされる大乗仏教の一派である。不立文字を原則とするため中心的経典を立てず、教外別伝を原則とするため師資相承を重視し、そのための臨機応変な以心伝心の方便など、種々の特徴をもつ宗派である。坐禅を基本的な修行形態とするが、坐禅そのものは古くから仏教の基本的実践の重要な徳目であり、坐禅を中心に行う仏教集団が禅宗と呼称され始めたのは中国の唐代末期からである。
禅宗においては、そもそも禅宗とはなにかといったメタな問いかけを嫌う傾向にある。そのような疑問の答えは、坐禅修行によって得た悟りを通して各々が自覚する事が最上であるとされ、もし人からこういうものだと教わりうる性質のものであるならば、それは既に意識が自身の内奥ではなく外へ向かっているため、内面の本性に立ち返るという禅宗の本意に反するとされるからである。もう一つの理由として、概念の固定化や分別を、わがままな解釈に基づく「とらわれ」「妄想」であるとして避けるためであり、坐禅修行によってとらわれを離れた自由な境地に達してのちに、そこから改めて分別することをとらわれなき分別として奨励するからである。
文字や言葉で教えることを避けて坐禅を勧める理由として、世尊拈華、迦葉微笑における以心伝心の故事を深く信奉しているという以外にも、自分の内奥が仏であることを忘れて経典や他人の中に仏を捜しまわることがかえって仏道成就の妨げになるからであると説く。沢庵和尚がたとえて言うには、「水のことを説明しても実際には濡れないし、火をうまく説明しても実際には熱くならない。本当の水、本物の火に直に触ってみなければはっきりと悟ることができないのと同様。食べ物を説明しても空腹がなおらないのと同様」で、実際に自身の内なる仏に覚醒する体験の重要性を説明し、その体験は言葉や文字を理解することでは得られない次元にあると説き、その次元には坐禅によって禅定の境地を高めていくことで到達できるとする。
インドではマハーカーシャパ(摩訶迦葉)から法が順に伝えられ、ボーディダルマ(菩提達磨)によってインドから中国に、禅の教えが広められたと主張し、権威付けを行っている。
禅が中国で実際に禅宗として確立したのは、東山法門と呼ばれた四祖道信、五祖弘忍以降である。さらに六祖慧能の名を使用し、弟子の荷澤神会が編纂したと考えられている『六祖大師法宝壇経(六祖壇経)』に新しい坐禅と禅定の定義が宣揚されたのを契機として発展したものと考えられる。
さらに禅は、もはや禅僧のみの占有物ではなかった。禅本来のもつ能動性により、社会との交渉を積極的にはたらきかけた。よって、教団の枠組みを超え、朱子学・陽明学といった儒教哲学や、漢詩などの文学、水墨による山水画や庭園造立などの美術などの、様々な文化的な事象に広範な影響を与えた。
日本には、公式には13世紀(鎌倉時代)に伝えられたとされているが、平安時代には既に伝わっており、檀林寺で禅が講義されたとの記録があり、また、日本天台宗の宗祖最澄の師で近江国分寺の行表は中国北宗の流れを汲んでいる。臨済禅の流れは中国の南宋に渡った栄西が日本に請来したことから始まる。鎌倉時代以後、武士や庶民などを中心に広まり、各地に禅寺が建てられるようになった。中国から日本に伝わる禅の宗派に24の流れがあり、臨済宗から独立した黄檗宗を含めると46流になるとされる。日本から世界へ禅が広まり、日本の禅が世界に最も良く知られている。悟りを得たと言われている日本の学者鈴木大拙によって20世紀に日本からアメリカ、ヨーロッパへと禅が紹介され、日本語の「Zen」が世界的に広まることとなる。
中世の有名禅僧は、師と仰がれ、朝廷や幕府で公卿·将軍たちに、当時盛んになった朱子学を含めた儒学経書を講じた事例も、史料から確認され、北条時頼に『大明録』を講じた円爾弁円や三代将軍足利義満に四書を解釈した義堂周信など、世によく知られているほどである。明らかに、こうした禅僧の活動は、中世文化構築には多大な寄与になるものである。
禅僧は朝廷や幕府に自由に出入りし、各種の社会活動や重大方策の決定に関与した。今迄の研究により解明されたように、「天竜寺船」の派遣には、禅僧夢窓疎石の勧めは決定的な影響力があったこと、「北山文化」の代表者足利義満が京都に相国寺を建立し、「五山十刹制」を完全なものにしようと決意に至ったのは、義堂周信の建言に耳を傾けた結果であること、等等、多くの朝廷公卿や将軍·上流武士が禅僧を師と仰ぎ、彼らを自由に朝廷や幕府に出入りさせたことは、多くの事例から分かる。
禅僧の活動を通して、禅宗文化を含めた中国宋元風文化を広く「禅林」外まで伝播した。これに関しては、特に後期の戦国時代に戦乱を避けるために地方へ隠れたり、京都から地方へ活躍の場を求めたりする五山文芸僧が現れ、地方の武士と親交し、彼らに儒学や他の学問を教えたことは、無視できない史実である。
日本文学史では、中国伝統文化を特徴とする「漢文学」と日本民族特色を象徴とする「国風文学」は、ずっと文学の主体である。「漢文学」の集大成とする五山文学と「国風」の精粋とする俳句は、皆禅宗と分けられない関係がある。
禅宗は日本文化に対して大きな影響があるから、日本語においても跡を残した。禅宗が伝われた前に、日本語はすでに呉音と漢音の二つの体系があった。12、13世紀、日本の僧侶は禅宗を持って帰った同時に、中国の南地方言語――唐音も持って帰った。例えば、行脚(あんぎゃ)、看経(かんきん)、法堂(はっとう)、東司(とうす)などの禅宗用語はすべて唐音である。禅宗の導入は、日本漢字の読み方が呉音、漢音、唐音という三つの体系が存在する局面を引き起こした。
茶道はもともと唐(618~ 907年)の時代に中国から伝わったと言われている。 茶道の精神は禅宗の考え方に基づいており、鎌倉時代、日本全国に禅宗が広まるのと共に茶道も全国的に広まった。
書道史上においても、入宋留学僧や来朝僧らが伝えた、当時の中国で流行していた書風を禅宗様と呼んでいる。蘭渓道隆や一山一寧らの墨蹟が、その代表である。明朝の成立以後は、往来が途絶し勝ちになり、禅宗様に和様が混入し始め、折衷的な書風としての五山様が成立する。
武士道といったら、人によっていろいろな解釈がある。とりあえず、禅に基づいた武士道として考えている。平安末期に武士が台頭し始め、鎌倉でその地位を確立した。禅も平安末期に伝わり、武士の間で次第に広まった。その中で武士道が生まれてきた。禅宗では、「生は幻、死は常住」という理論があり、これも武士道に大きな影響をもたらした。
前に言ったの禅宗様は、もともと建築における言葉である。禅宗様は、日本の伝統的な寺院建築の様式の一つ。和様・大仏様に対する言葉。禅宗様も禅宗文化の影響を受けて生じたものであった。
禅宗文化の影響は文学、言語や建築などにとどまらず、日本人の観念にも及ばした。禅宗では、「あるがままに生き、あるがままに存在する」ということを提唱した。これも日本人の素朴な性格と似合う。日本人は自然や真実なものが好き、禅宗もこのようなものを承認した。この上に、禅宗文化の影響を受けて、日本人の「静」の性格を養成した。
日本の中世時代に、中国禅宗が日本に移入した。それに伴って自然に輸入された中国宋元風文化も著しかった。言うなれば、禅の理念や思想などを含め、いわゆる「禅宗文化」というのは、幅広く且つ深く日本の中世文化の各方面に浸透した。渡来した禅僧が日本で仏教を伝え、禅法を広げようと努めると同時に、「禅林」外においても大いに活躍し、中世文化の形成や発展に少なくならぬ寄与をされたのである。日本の中世文化を理解するために、禅宗文化は一つの出発点である。禅宗文化をよく理解したら、日本文化或いは日本人を理解することに助けがある。