10.8.16
村川淳一
日本陸軍航空史(その26)
~航空特攻(1)~
1 はじめに
私は平成13年ころから、日本陸軍航空史を書いてみたいと思い始め
ました。そのうちでも特に、陸軍航空の曙、加藤隼戦闘隊及び航空特攻に
思いが募りました。しかし、ほとんど準備もないまま、厚かましくも平成19年
1月5日に日本陸軍航空史(その1)を発信させていただきました。
そして、同年12月7日、当時勤務させていただいていた会社から休暇を
頂いて兼ねてからの念願であった知覧特攻平和会館を訪れました。同会館
は知覧飛行場跡に建てられています。知覧飛行場は昭和16年に入って工
事が開始され、同年12月10日に完成しました。そして12月24日、大刀
洗陸軍飛行学校知覧分教所が開設されました9)。特攻基地となったのは昭
和20年3月下旬です。
平和会館敷に隣接する特攻平和観音堂には、1,036柱の御霊が祀られ
ています。知覧から飛び立った陸軍航空特攻隊員は439人でしたが、知覧
の司令部から出撃命令が出て、万世(ばんせい)、都城、台湾、熊本、鹿屋
及び大刀洗などから飛び立った隊員を含めた御霊の数が1,036柱(うち
朝鮮籍11柱)で
あったからだそうです2)。
これから何回に亘るのか自分でも分かりませんが、なぜ
航空特攻が始まったのか、その成果はどうだったのか、
そして、彼らがどういう思いで特攻に従事したのか、などに
ついて、ほとんどが二次・三次資料ですが、手元にある資料
を元に、海軍を含めて可能な限り描いてみたいと思います。
時間とお金をかければ、いい資料が集まるのですが、安易に
文庫本などを基にして書き進めます。
文庫本で特攻についてよく研究されていると思うのは、参考文献1、5及び8です。単行本の参考文献6は、猪口力平(いのぐちりきへい)元第一航空艦隊主席参謀と中島正(なかじまただし)元201空飛行長の共著ですが、一次資料ながら、誤謬や著者自身の行動の粉飾などが多々見られます。
参考文献1の『あとがき』によりますと、特攻隊慰霊顕彰会編纂『特別攻撃隊』(平成2年、非売品)に掲載されている氏名を数えた結果、広い意味の特攻戦死者数は、海軍4,156人、陸軍1,689人、合計5,845人です。この中には、特攻のために沖縄、フィリピン又はソロモン諸島など各地域に派遣されながら、出撃の機会がなくて地上戦で戦死し、あるいは餓死し、輸送船が撃沈され、特攻兵器による訓練中に殉職し、あるいは敵機の攻撃を受けて戦死した人も含まれています。資料『特別攻撃隊』による航空特攻の戦死者数は、海軍が2,431人、陸軍が1,417人、合計3,848人となっているそうです。航空特攻の戦死者数は、実際に出撃して還ってこなかった人数とされています1)。
多くの航空特攻隊員は、日本が負けるだろうということは、うすうす感じていたでしょうが、自らの死が講和の条件向上や、戦後の日本復興に向けた精神的基盤構築の一助になると信じていました。また、死ぬことが「悠久の大義に生きる」ことであると信じていました。すなわち、楠公と同じ精神であり、その紋所『菊水』が使用されたり、沖縄の海軍特攻作戦が『菊水作戦』と呼称されたりしました。
下の写真は、特攻平和会館の傍に復元されている三角兵舎です。二十歳前後の若者が、四、五日間、このような場所で出撃前の時を過ごしましたが、中には一晩で出撃した隊員もいました。
知覧高等女学校の三年生(最初は18名で次
第に増員)は、昭和20年3月27日(そのころは
二年生)から勤労動員学生として特攻隊員の世話
をしましたが、手記によりますと、この日すでに最初
の特攻隊員が到着していたそうです。三角兵舎に
は棚一つあるわけでなく、風通しも悪く、雨が降れば
通路はぬかるみになったそうです9)。
航空特攻隊の大部分が飛び立ったのは、九州や
台湾の基地からでした。右図10)は九州の陸・海軍
飛行場の状況です。これを数えると陸軍21、海軍
19、合計40となります。
ここで、前号P6の訂正をさせていただきます。
参考文献5を読み直してみましたら、栗田艦隊は
2機の偵察機を持っていましたが、撃墜されてい
ました。失礼しました。しかし、栗田艦隊の約60
海里南に、ほとんど無防備の75隻もの輸送船団
が速度5ノットでレイテを目指していたことを思うと
やりきれません。
2 特攻が生まれた我が国の土壌と航空特攻の先駆け
(1) 特攻が生まれた我が国の土壌
御案内のように、もともと必死の覚悟や自己犠牲の行為は古くから我が国にあり、目新しいものではありません。
前号で述べたように、特殊潜航艇や回天などは航空特攻よりも前に考えられ、実行されました。回天(人間魚雷)、震洋(海軍の爆装モーターボート)及び丸レ(陸軍の爆装モーターボート)などは、高価な特殊潜航艇に比べて安価で製造できるものの、目標の艦船に接近すること自体が非常に困難であり、その点、高高度又は超低空で接近し得る航空機による特攻は、より確実性の高いものであったわけです。
航空機による体当たりは、上空で被弾し飛行不能となって、やむを得ず艦船に突っ込むという形で、早くも真珠湾攻撃の際に行われました。空母蒼龍を飛び立った第2次攻撃隊・第3制空隊長飯田房太(ふさた)大尉は、燃料タンクを射抜かれて航続力を失いますが、部下を母艦方向に誘導したのち単機で戦場に戻り、敵艦(参考文献13ではそうなっていますが、カネオ飛行場の道路上という文献もあります)に体当たりを敢行しました。また、マレー沖海戦において炎上した我が攻撃機が、プリンス・オブ・ウェールズ及びレパルスの両艦に向かって体当たりを敢行した例もあります13)。
米軍についても、ミッドウェー海戦において、空母赤城と重巡最上に対して、燃えながら突っ込んだ2例が挙げられています13)。
航空特攻が正式な作戦計画として立てられたのは、昭和19年10月から昭和20年8月までの敗戦期だけですが、それは突然ではなく、個人特攻に端を発し、これが制限特攻へと発展し、ついに全軍特攻へと発展していくという過程をたどった結果でした13)。
(2) 航空特攻の先駆け6)13)16)
最初から生還を考えない個人航空特攻を行った最初の軍人は、友永丈市海軍大尉だといいます。昭和17年6月5日のミッドウェー海戦中、空母赤城、加賀、蒼龍の3隻が炎上し、飛龍1隻となったとき、飛龍の友永大尉は、全力(雷撃10、戦闘6)を率いて東方200マイルにある敵空母群に最後の攻撃をかけました。出撃にあたり同大尉は山口多聞司令官に、「これで永のお別れといたします。しかし、1隻は必ず仕留めて御恩返しを致します」と挨拶しました。果たして、敵空母ヨークタウンを撃沈し、自らも体当たり散華しました13)。
伊藤正徳氏が二人目として挙げるのは海軍の小松咲雄飛行兵曹長です。小松兵曹長は昭和19年6月のマリアナ沖海戦において出撃のために離艦後、敵の魚雷が旗艦の空母大鳳に向かってくるのを航跡によって発見し、とっさに急降下して魚雷に体当たりを行いました13)。
伊藤氏が三人目として挙げるのは『その24』で紹介しました、陸軍の第5飛行戦隊長髙田勝重少佐です。この場合は4機による攻撃でしたが、完全なる個人の発意ということで伊藤氏が挙げています。しかし、時期的には小松兵曹長の前の昭和19年5月27日ですので、二人目として挙げるべきでしょう。このときの戦果は、ビアク島上陸中の軍艦2隻撃沈、同2隻撃破を報じられました16)。
参考文献16によりますと、そのほかにも昭和19年9月15日、小島文雄、笹野美秀両陸軍曹長が軍偵により巡洋艦に体当たりをかけて大破炎上を報じています。
前号で「有馬正文(ありままさぶみ)少将が敵艦に体当たり特攻をした」と述べましたが、これは参考文献7及び参考文献13によるものであり、参考文献6によりますと、体当たりは行っていません。以下、参考文献6の内容を述べたいと思います。私は、階級章などを除去している
ことや、少将自ら搭乗した極めて異例の事態から、最初から体当たりを追求
したものと考えます。
海軍では、航空機に乗って戦闘行動に従事するのは飛行隊長を最上級
としていましたが、中型攻撃機以上では、ごくまれに飛行長(司令、副長の
下、飛行隊長の上)が搭乗して部隊指揮をすることがありました6)が、
第26航空戦隊司令官有馬少将は特異な行動を取りました。猪口氏はこう
書いています。
「かれは攻撃隊の出発直前、みずから指揮官機に搭乗するむねを言い
わたし、軍服の少将の襟章をとりはずし、懐中から小刀を出して双眼鏡の
「司令官」という白い塗料の文字をけずり、参謀や司令たちの引きとめるの
をしりぞけて搭乗、攻撃隊の先頭を切って離陸していったのである」(下線は筆者)。
司令官の態度が変わったのは敵機動部隊の比島攻撃が開始されてからで、特に昭和19年9月12日のダバオ事件(下線は筆者)で多数の航空機を失った責任を痛感してか、死所を求め続けた乃木将軍にも似たところがありました6)。
航空戦隊司令官宿舎はマニラに快適なものがありましたが、決してそこには住まず、飛行場内のバラックの軽便寝台で起居し、三度の食事はすべて弁当だったといいます。また、敵の重爆撃や、味方高射砲の破片が飛んでくる中、決して指揮所から退きませんでした。あまりにも危険であるため、司令官付の金丸予備少尉が体で司令官をかばうようになって、やむなく防空壕に入ることもありました6)。
横道に逸れますが、猪口氏が上記のように『ダバオ事件』と書いたのは、共著者の中島氏をかばったのでしょう。『ダバオ事件(ダバオ誤報事件)』は、海軍の監視哨が、さざ波を敵の大機動部隊の上陸と見誤って大パニックになった事件であり、大損害が出たのは、そのために航空機が避難したセブ島で起きた『セブ事件』で、『その22』で述べたように、敵襲20分前に陸軍の対空監視哨から通報があったにもかかわらず、中島飛行長が「かまわん」と無視してブリーフィングを続けた結果、多大な犠牲が出たものでした。しかも、生存者の証言では、16名の戦死者、喪失約50機、中小破約30機5)であるのに、中島氏の記述には、陸軍対空監視哨の通報の件はなく、死者の件もなく、「味方の哨戒機や見張所からの通報にはなんら異状もなかったが、不意の奇襲で、約30機が大破炎上、中小破約30機」となっています。海軍はこの前後の損害を約150機としており5)、中島氏の記述は明らかな粉飾です。
昭和19年10月15日、少将は一式陸攻に搭乗して第2次攻撃隊の先頭で進み、マニラ沖の敵機動部隊を発見すると、1545、全機攻撃を命じました。これは特攻ではなく、水平爆撃だったそうです6)。参考文献6には、「しかし、かれ(筆者注:猪口氏が9期も先輩をなぜ「かれ」と気安く書くのか理解できません)の搭乗機は不幸にして自爆し、少将は壮烈な戦死をとげたのである」と書かれています。
伊藤正徳氏が個人特攻の代表的なものとして挙げるのは、元首相阿部信行陸軍大将の次男、阿部信弘陸軍中尉が昭和19年10月19日、英空母に対して行った体当たり攻撃です。阿部中尉は、教育飛行隊在隊中、長兄信男(住友の兵器製作会社勤務13))に、1機で空母を撃沈する方法を訊ねましたが、兄はそこで、「体当たり以外にない」と言います。阿部中尉はマニラに出張した際、叔父の稲田陸軍中将に、「体当たりしかない」という意味のことを言います。
阿部中尉の上司は、大将の息子を危険な場所に行かせないよう、シンガ
ポールの野戦補充飛行隊教官に配置しましたが、中尉は、訓練飛行に名
を借りて、前線付近を偵察飛行していました。そして時機到来の10月19
日、先頭を切って出陣、カーニコバル島沖に来襲した英機動部隊中の
空母ユニコンの飛行甲板に体当たりを敢行しました。発進前に両親宛に
出した手紙には、「大和民族の精神を示す時が来ました。御両親や兄上
姉上との間は打切り、屍を大型艦と共に散らさん迄は今後の御無音御許し
下さい」と書かれていました13)。
3 特攻兵器の開発1)4)5)
(1) 回天(かいてん)
回天とは形勢を逆転するという意味です。機密保持のために『マル六(○の中に六)金物一型』と呼ばれました。昭和18年3月末、竹間忠三海軍大尉が海軍軍令部に提案し、同年12月にも、黒木博司(くろき ひろし)海軍中尉と仁科関夫(にしな せきお)海軍中尉による同様の提案があり、昭和19年4月に量産が開始されました。回天作戦の細部については次号に書きたいと思います。
(2) 震洋(しんよう)
昭和17年前半、黒島亀人海軍大佐が聯合艦隊作戦参謀時代に提案され、昭和19年5月に量産が開始されました。爆弾を搭載したベニヤ板製の20ノット以上で走るモーターボートです。
(3) マルレ(陸軍)
『レ』は連絡艇の頭文字で、これに○を付したものです。昭和19年6月に設計を開始し、7月8日に1号艇が完成しました。海軍の震洋はボートの先端に信管が付いていて、体当たりで爆発するものでしたが、陸軍のマルレは、爆雷を投下してUターンをするというもので、震洋のように体当たりをするものではありませんでした。元陸軍海上挺身隊中隊長で、陸自施設学校教育部長などを歴任された皆本義博氏に伺い、それが確認できました。本来の方法で成功した例もあったのですが、現実にはなかなか、そのように器用な攻撃はできず、正確を期すために、そのまま突っ込んでいった例が多かったようです。
(4) 桜花(おうか)
有人爆弾。航空整備員の大田正一海軍兵曹長が昭和19年5月に構想、5月又は6月に航空技術廠に提案し、8月に設計・試作を開始し、9月に量産を開始しました。
(5) 海軍航空特攻
昭和18年6月29日、侍従武官城英一郎(じょうえいいちろう)海軍大佐
が、航空本部長大西瀧治郎(おおにし たきじろう)海軍中将に提案しました。
城大佐の提案は、艦上攻撃機及び艦上爆撃機に250kg爆弾を搭載して
体当たりを行うというものでした。城大佐は前年6月5日のミッドウェー海戦
敗北は知らず、純粋にこの結論に至ったようです。
(6) 陸軍航空特攻
昭和19年2月下旬、参謀本部は航空特攻の検討を開始しました。同年3月、現戦局を打開するためには艦船に体当たりを敢行するしかないという結論に至り、ついにこれを決心しました。そして、特攻兵器の開発を第3航空技術研究所(射撃爆撃器材・化学兵器担当)長に命じました4)。
陸軍航空特攻については、次号以降に述べます。
(7) 甲標的(こうひょうてき)
二人乗り特殊潜航艇です。『特潜』(とくせん)と略称しました。海軍は、真珠湾攻撃の前からこれを準備していました。これを改良したのが『蛟龍』、魚雷を積まず、爆弾を搭載したのが『海龍』です。
4 特殊潜航艇の活躍3)8)
『特殊潜航艇』(秘匿名『甲標的』)作戦は真珠湾攻撃に始まります。建前は、魚雷(2発装備)発射後に母艦たる大型潜水艦に戻ることになっていましたが、搭乗員はほとんどの場合、帰艦を考えずに攻撃に専念し、実際に帰艦し救助された例はありませんでした。航空特攻は『特別攻撃隊』とも『特攻』とも呼称しますが、なぜか、艦艇による特別攻撃隊は、『特攻』と縮めて呼称することはないそうです。
前号で「生還実績なし」と書きましたら、高校の同期生K君から「一人捕虜になって生還したんじゃなかったかな?」というEメールが来ました。そうです。酒巻和男少尉が気を失って捕虜となりました。したがって、真珠湾攻撃に参加した10名中戦死した9名だけが『九軍神』となり、二階級特進しました。
真珠湾攻撃後の昭和17年5月31日、秋枝三郎
海軍大尉と竹本正巳1等兵曹は、マダガスカルの北
部、ディエゴスワレズ軍港の英戦艦ラミリーと英大型
タンカーを魚雷攻撃し、前者を半年間の行動不能状態
に陥れ、後者を沈めました。秋枝大尉は、文子夫人から
せがまれて出撃の二週間前に結婚していました。
二人は英艦に包囲されてやむなく乗艦を自沈させ
て上陸し、日本刀をかざして斬り込んでいきます。
英軍は投降を勧めたのですが二人は聞き入れず、
英軍はやむを得ず二人を射殺しました。チャーチルは
この二人を英雄として讃えました3)。
同日夜、3隻の特殊潜航艇がオーストラリアのシドニー湾に潜入しました。1番艇は伊27号から発進した中馬兼四(ちゅうまけんし)海軍大尉と大森猛1等兵曹で、同艇は途中、防潜網にかかって身動きできず、壮烈な自爆を遂げました。2番艇は伊24号から発進した伴(ばん)勝久海軍中尉と芦辺(あしべ)守1等兵曹で、米重巡シカゴを狙って魚雷2発を発射しましたが、かわされ、1発は岸壁、1発は豪宿泊用艦船クッタバルに命中、これを撃沈しました。これにより豪兵19名、英兵2名が戦死しました。その後、母艦を目指して引き返したのですが、砲撃で受けた損傷が激しく、沈没してしまいました3)。この艇は平成18年12月1日、湾口から5.6km、水深70mの位置で、64年振りにオーストラリアの民間ダイバーによって発見されました。
3番艇は伊22号から発進した松尾敬宇(けいう)海軍大尉と都竹
(つづき)正雄2等兵曹でしたが、すでに湾内は帝國海軍の攻撃を
察知して大騒ぎになっていました。松尾大尉らは米重巡シカゴを
狙って航行しましたが、岸壁に艇の先端を衝突させてしまい、魚雷が
発射できなくなりました。そこで艇もろとも突っ込もうと、さらに軍港の
奥まで進みました。しかし、豪海軍の爆雷攻撃で身動きができなくなり、
二人は艇を自沈させるとともに、拳銃で頭を撃ち抜き、抱き合うように
自決しました3)。
3隻の母艦は湾外で特殊潜航艇を三日間待ちましたが、戻らない
ため、オーストラリア東海岸の攻撃に移行し、6月3日、4日、5日と貨物船を1隻ずつ撃沈し、7日と8日には浮上してシドニー市街に砲撃を加えました3)。
しかし、その最中、シドニー地区海軍司令官ムアヘッド・グールド少将はなんと、引き揚げられた日本海軍軍人四人の海軍葬の準備をしていたのです。攻撃を受けた側の豪海軍が、陣中深く入り込む大胆不敵な作戦とその敢闘精神に感銘を受けたのです。6月9日の葬儀には中立国代表としてスイス総領事も参列し、四人の柩は日章旗で丁寧に覆われて、荘厳な葬儀が営まれました3)。
グールド少将は「かくのごとき勇敢な行為は、単なる一民族、一国家の独占物ではない。それは全人類のものである。オーストラリアの青年よ、鋼鉄の棺桶(特殊潜航艇のこと)に乗って日本の国に殉じたこの日本の勇士の、千分の一でもよいから、それをもって祖国のために尽してもらいたい」と訓示しました3)。
ちなみに、昭和40年6月9日、オーストラリア戦争記念館マックグレース館長夫妻が、熊本県山鹿市の御母堂まつ枝さんを訪ね、墓参りを行うとともに、松尾中佐を讃えています。

上の写真でラッパを吹奏している兵士もまつ枝さんを訪れているそうです。まつ枝さんも昭和43年4月28日にシドニー湾、5月1日に首都キャンベラの戦争記念館を訪れました3)。5月8日、帰国を待ち構えていた日本の報道陣は、インタビューの打ち合わせで、「最後に、戦争というものは、いやなものですね」と言って下さいと言いましたが、まつ枝さんは「戦争、誰も好きません。ばってん、せにゃならん時がありゃ、致しかたありませんたい」と答えたといいます8)。
こののち、真珠湾攻撃隊を第1次特別攻撃隊、マダガスカル・シドニー攻撃隊を第2次特別攻撃隊と呼ぶようになりました。
5 神風特別攻撃隊の誕生1)5)6)7)
(1) 神風特攻隊の創始者と最初の隊員
「神風特攻隊の創始者は、大西瀧治郎中将である」とよくいわれて
いますが、第1航空艦隊司令官として命令を下したのは確実ですが、
特攻を最初に考えたのは城大佐であり、それを命令として具現したのは
大本営海軍部航空参謀・源田大佐(10月15日に大佐昇進)でした。
大西中将は、「特攻は統率の外道だよ」と言って、以前は反対していまし
たが、あ号作戦失敗後は、「講和条件を少しでも有利にするため、敵に
一撃を与えておく」という観点で賛成するに至りました。
源田大佐は、大西中将が第1航空艦隊司令官としてフィリピンに出
発する前に会談し、総称を『神風(しんぷう)特別攻撃隊』とし、最初の特
攻隊を本居宣長の和歌に因んで、『敷島隊』『大和隊』『朝日隊』『山桜
隊』と呼ぶことを決めました(源田氏が起案した昭和19年10月13日
の電文で明白)。しかし戦後、参議院議員となった源田氏は常に、「自
分は特攻とは関係ない」という態度を取り続けました1)。
さらに参考文献6で猪口氏は、昭和19年10月17日に着任した
大西中将が特攻について熱く説き、これが行われることになったとき、
「自分が同期生の玉井副長を説得して『神風(しんぷう)隊』という名称を
提案して、決定された」と述べています。偶然の一致ですが、しかし、
猪口氏の言うことは信用できません。その一例は、最初の特攻隊員の
期別の件です。201空の玉井浅一副長が最初の隊員の人選をしま
したが、昭和18年10月に松山基地の263空(司令:玉井中佐)に
配属以降、同副長と苦楽を共にしてきた甲10期生(第10期甲種飛
行予科練習生)が最適であるという結論に至りました5)。
しかし、参考文献6ではそれが、『9期飛行練習生』(戦史叢書でも9期乙種となっているそうです)となっており、その表記が何ヵ所もあります。昭和47年以前の市販の図書もすべて『9期乙種』となっているそうですが5)、参考文献6が昭和42年に出版されていますから、これが元凶かもしれません。当事者であった猪口氏や中島氏がこのように基本的な誤りを行ったことは、実に疑問に思います。甲10期生の悲憤は、いかばかりだったかと思います。
10月19日夜、玉井副長は甲10期生33名を集合させて、長官の決意を伝えます。1航艦の各戦闘機隊に配属された甲10期生220名はテニアン~グアム~ヤップと転戦し、201空にたどりついたとき、同期生はすでに63名となっていました。玉井副長は「貴様たちで特攻隊を編成する。日本の運命は貴様たちの双肩にかかっている。貴様たちの手で大東亜戦争の結末をつけるのだ」と述べました5)。生存者の言によれば、苦楽を共にしてきた玉井中佐の言葉に、特別なショックも受けず体当たりはむしろ以前から望んでいたことだと、そのまま受け入れたといいます5)。
(2) 神風特攻隊の最初の指揮官の人選
最初の特攻隊指揮官を命じるにあたり、人物、技量、士気共に優れた人物として玉井副長の脳裏に閃いたのは、菅野 直(かんの なおし)海軍大尉でした(猪口氏は『管野』と名前を何度も間違えて書いています)。しかし、菅野大尉は飛行機の受領のために内地に出張中でしたので、同大尉の同期生の関 行男(せき ゆきお)海軍大尉と決めました。ちなみに菅野大尉は72機撃墜の勇者でしたが、昭和20年8月1日、大村の301飛行隊長として、北上中のB-24×24機の編隊を邀撃中に戦死しました。
右の写真は、内閣情報局発行『写真週報』昭和19年
11月15日号の表紙となった関大尉です7)。
参考文献6によりますと、関大尉が隊長を引き受けた
経緯は次のとおりです。すでに就寝していた同大尉を起こ
し、大尉が階下の食堂兼士官室に降りてきたところから始
めます。階下には玉井副長と猪口参謀がいました。以下は
原文を引用しつつ要旨を記したものです。
「玉井副長は、関大尉の肩を抱くようにして、長官が特攻
を決定した経緯と関大尉に指揮官として白羽の矢を立てた
ことを涙ぐんで述べた。関大尉は唇を結んでなんの返事も
しない。両肘を机の上につき、オールバックの長髪を両手
で支えて、目をつむったまま深い考えに沈んでいった。
身動きしない。一秒、二秒、三秒、四秒、五秒・・・。と彼の
手がわずかに動いて、髪を掻き上げたかと思うと、静かに
頭を持ち上げて言った。『ぜひ、私にやらせてください』
少しのよどみもない明瞭な口調であった」
参考文献1によりますと、実際はそうではありませんでした。全文をそのまま引用します。
「しかし、じっさいには関大尉は即答しなかったと、玉井中佐はのちに告白したという。そのことがはじめて世に出たのは、昭和59年12月発行の『増刊 歴史と人物』「秘史 太平洋戦争」特集号(中央公論社)に掲載された森 史朗「神風特攻 マバラカットへの道」においてだった。そこには、関の中学時代の同級生にたいし、日蓮宗の住職になっていた玉井が、「関は一晩考えさせてくれ、といいましてね。あの日は豪雨で、関は薄暗いローソクの灯の下で、じっと考え込んでいました」との“証言”が紹介されている」
「関大尉に関してはまた、次のようなエピソードが残されている。出撃直前、同盟記者の小野田政にたいして、「報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある」と語ったという。また、さらに、次のようにも語ったという。「ぼくは天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(ケイエイ。海軍隠語でKAKAつまり奥さんのこと)のために行くんだ。命令とあらばやむをえない。日本が敗けたら、KAがアメ公に強姦されるかもしれない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、すばらしいだろう!」(『神風特攻隊出撃の日』今日の話題社)と。関大尉はその年の春、結婚したばかりだった」
参考文献6では、その直後に猪口参謀が玉井副長に「これは特別のことだから、隊に名前をつけてもらおうじゃないか。神風(しんぷう)隊というのはどうだろう?」と言い、玉井副長が「それはいい、これで神風をおこさなくちゃならんからなあ!」と応えて、2階の大西長官に報告に行き、隊長が士官学校出身の関大尉になったこと、隊員が24名になったこと、隊名を神風隊にしたいことを上申し、承認されたことになっていますが、それが昭和19年10月20日午前1時過ぎと書かれています。
しかし、この時刻はかなり疑問ということになります。
6 陸海軍の特攻専用機7)11)12)14)15)
(1)空技廠 桜花12)15)
昭和19年夏、戦局劣勢の中、独V1号の活
躍を伝え聞いた大田兵曹長(のちに特務少尉)
が最初に提案しました。そこで、○の中に大の字
の『マルダイ』という秘匿略号のもとに、海軍航空
技術廠が同年8月に設計・試作を開始しました。
公には、同廠飛行機部設計主任の山名正夫
技術中佐とされていますが、実際は三木忠直
技術少佐が設計を行いました。そして、早くも9
月上旬には初号機が完成しました。
敵戦闘機から捕捉されないように極力高速とし、
命中精度を高くするために操縦・安定性を良くし、
地下壕に隠蔽可能なように、小型で分解・組立容易、入手容易な材料で大量生産に適していること、計器は速度計、高度計及び傾斜計程度とすることなどの要求が採り入れられました。
最初にできたのが、11型(海軍の方式では、機体と発動機の型を表記しますので、機体も発動機も最初の型という意味)です。これには数個の信管が取り付けられ、どのような角度で接触しても爆発するように工夫されていました。胴体は円形断面の軽合金製、主翼は木製複桁に合板張りで、風圧中心の移動の少ない翼安定の良いものでした。
また、1式陸攻の爆弾倉部に懸吊するため、垂直尾翼は端板式とし、高速飛行をするため、フラッター抑止のためのマスバランスを装着しました。滑空攻撃を目指したのですが、敵戦闘機に追尾されたときのために、ロケット(秋水と同じ液体ロケットは間に合わず、固体ロケット)を3基備え、次々に噴射できるようにしました。乗組員は、発射直前に、1式陸攻の下部から乗り込むようになっていました。
桜花は、日飛及び中島(中島は昭和20年4月1日から軍需工廠令によって第一軍需工廠となります)などに下請けに出されて155機生産され、空技廠自身は600機生産しました。
しかし、昭和19年11月末、世界最大の空母『信濃』に搭載された50機が、その処女航海で船とともに撃沈され、昭和20年3月21日に一式陸攻18機中15機に搭載されて初出陣しましたが、母機とともに全滅してしまいました。このため、鈍重な1式陸攻(最大速度428km/h)に代えて、より高速の銀河(最大速度548km/h)に搭載可能な22型が生産されました。
これは、母機に合わせて翼のスパンを短くし、弾頭重量を半分の600kgにして、ツ11型ジェットエンジン(地上静止推力200kg)を搭載したものですが、発動機の空中始動ができず、離陸前に始動して、燃料は母機から供給するものでした。昭和20年6月から試験飛行に入りましたが、8月12日、母機との接触で殉職者が出て、開発中止となりました。それでも50機が生産されました。
米軍から「馬鹿爆弾」と揶揄されたもの
の桜花に対する海軍の執念はすさまじく、
今度は4発陸上攻撃機『連山』搭載の
33型が検討されます。
これは、橘花(きっか)に搭載されたネ20
型ジェット・エンジンを動力とし、航続距離
150海里(278km)、弾頭800kgというもの
でしたが、中島の連山が、誉発動機や
過給機の不調で計画中止となり、33型
も生産されませんでした。
そのほか、33型と同じ発動機を備え、カタ
パルト発進の43型も試作されました。43甲型は潜水艦伊400型を母艦とする型、43乙型は山上から射出される型で、後者のために、全国の観光地から、ケーブルカーのレールが集められ、実際に要地に設置されたそうです。ただ、43型は試作段階で終わり、上図の練習機型だけが試験に成功しました。また、曳航式の53型は計画だけで終わりました。結果的に、実用に供されたのは11型だけでした。
(2)中島 キ115特殊攻撃機『剣』11)14)
陸軍は、海軍の桜花に続き、昭和20
年1月20日、中島に特攻機の試作を
命じました。前年の夏頃に中島の一技師
から提案があったようですが、徹底した簡
素化ぶりに、陸軍はいくばくかの疑念を
持っていました。しかし、戦局の悪化に
伴い、やむを得ず開発に踏み切りました。
そして、3月1日に初号機を完成しま
した。桜花のように、極力、戦略物資を
使用せず、特殊な工作機械を必要とせ
ず、地方の工場でも生産可能で、種々
の代用材料を使用できることを狙って
設計されました。
発動機は、隼や零戦で使われて大量
生産されており、第一線では役に立たな
くなった中島ハ115(榮21)が採用され
ました。
甲型の主翼はアルミニウム合金の単桁構造で、3本のボルトで胴体に取り付けられていましたが、量産型の乙型は全木製翼型でした。胴体は鋼管骨組に鋼板外皮、カウリング部はブリキ板で、胴体断面は前半分が完全な円筒で、後半部分に250kg、500kg又は800kgの爆弾が埋め込まれました。
水平安定板と垂直安定板は全木製、昇降舵と方向舵は木製羽布張で、前縁だけ鋼板張りでした。また、降着装置は離陸する役目だけを担っており、写真(下)に見られるように鋼管溶接に車輪を付けただけのもので、緩衝装置はありませんでした。特攻兵器であるため、離陸すれば脚は投下するようになっていました。尾脚も写真でお分かりになるように、単なるV字型鋼管になっていました。しかし、乗員訓練のためには、離着陸しなければならず、緩衝装置のない脚では、衝撃がひどくてたいへんでしたので、のちに主脚のみ、キ67『飛龍』の尾輪用緩衝装置を装着しました。前頁の上の写真がそれです。
審査の結果、安定性・操縦性が極めて悪く、巡航速度で60°旋回をすると横滑り気味になり、きりもみに入る癖があったようで、100機以上生産して、実用化された機はなかったそうです。
おわり
次回は「航空特攻(2)」
< 参 考 文 献 >
1) 「特攻」(平成19年5月 森山 康平著 ㈱河出書房新社)
2) 「知覧特別攻撃隊」(平成元年4月 村永 薫編 ㈲ジャプラン)
3) 「大東亜戦争を見直そう」(昭和43年8月 名越二荒之助著 ㈱原書房)
4) 「戦史叢書 陸軍航空の軍備と運用(3)」(昭和51年5月 防衛庁防衛研修所戦史室)
5) 「神風特攻の記録」(平成17年8月 金子 敏夫著 ㈱光人社)
6) 「神風特別攻撃隊」(昭和42年9月4版 猪口 力平/中島 正著 河出書房)
7) 「第二次世界大戦文庫8 神風特攻隊」(昭和60年2月 A.J.バーカー著/寺井義守訳 ㈱サンケイ出版)
8) 「特攻隊員たちへの鎮魂歌」(平成17年5月 神坂 次郎著 PHP研究所)
9) 「群青 知覧特攻基地より」(平成9年1月 改訂2刷 知覧高女なでしこ会編 高城書房出版)
10) 「白い雲のかなたに 陸軍航空特別攻撃隊」(平成13年4月12刷 島原 落穂著 ㈱童心社)
11) 「日本軍用機事典 陸軍篇」(平成17年9月 野原 茂著 イカロス出版㈱)
12) 「日本軍用機事典 海軍篇」(平成17年3月 野原 茂著 イカロス出版㈱)
13) 「帝國陸軍の最後 特攻篇」(昭和44年5月7刷 伊藤 正德著 ㈱文藝春秋)
14) 「航空情報別冊 太平洋戦争 日本陸軍機」(昭和44年10月 ㈱酣燈社)
15) 「航空情報別冊 太平洋戦争 日本海軍機」(昭和47年 1月 ㈱酣燈社)
16) 「戦史関係論文集 №3」(航空自衛隊幹部学校)